『ウォーキング・デッド』シーズン9第9話『『死人の正体』(Adaptation)感想です。
ウォーキング・デッド シーズン9 後半始まりました~。
シーズン9前半は『Evolution(進化)』で終わり、シーズン9後半は『Adaptation(適応)』でスタート。
『ウォーキング・デッド』を観ていて前々から気になってたことがあって、わたしは時代劇好きだし、時代小説とかも割と好きなんで、興味のない人から比べるとある程度戦国時代とかの知識は持っている方だと思います。
日本の戦の基本って、中国由来の孔子とか孟子とかの三国志的なもので武士の家に生まれた男子はそれを元に戦術を学ばされるじゃないですか。
それで、いきなり時代を経て現代の話になるんですが、昭和に生まれた子どもであるわたしも、家のテレビでかかっていた時代劇の再放送、タイムトラベルをモチーフにしたドラマ、大河ドラマ、お正月にやっている特番時代劇を観たくもないのに見せられたり、そもそもの学校の歴史の授業などで、三国志や儒教知らなくても『戦の作法』的なものってうっすら身についてると思うんですよ。
最近は、時代劇少なくなってるし、テレビもあまり観ない時代だし、時代劇の再放送とかやってないから、平成生まれはそんなには知らない可能性大ですけども。
『ウォーキング・デッド』はアメリカのドラマだし、サバイバルしているのも一般市民だけど、アメリカ自体今も軍を持ってるし第二次世界大戦では日本に勝ってる国でもあるわけだし、それこそある程度の戦争の歴史的なものって学校で学んでると思うんですよね。なのに、
何故、大将自らいつも真っ先に外に出て討ち死にするの!?
大将が本丸に居て、鎧を着て座ってて現場の人が走ってきて『申し上げます!東の門が破られましたっ!!』みたいな展開だと、ドラマとして成立しないのはわかるよ。
画にならないとか、見せ場がないとか。
それなら、今までとは違う見せ場を作ることもできないこともないし、今は『コミュニティ』を守るのが第一優先事項みたいな状態なのに、リーダー死に過ぎじゃない?
そして、みんなもリーダー守ろうよ!
って気持ちになってくる。
そもそも洋画のものだって、大将自らそんなには参戦していないよ。
そんなの『バーフバリ』ぐらいだし。
強い人からどんどん死んで行ったらコミュニティとしても弱くなるし、足軽たちじゃどうにもならなくなった時の最終手段で出ていくのが大将でしょうがっ!
ウォーキング・デッドでは、いつもリーダーがコミュニティを不在にしてるからトラブルにも即対処できなくて問題が問題を引き起こしたり、ニーガンの檻の鍵を掛け忘れたりってことになっちゃうんだよ・・。
リーダーたちが外に出ていくのも誰も止めないし、誰か死んでも、連帯責任じゃなくて自己責任って感じだもんね、いつも。
やっぱり、そこに文化の違いを感じるし、コミュニティを大事にしてるような感じに今はなってるけど、結局は『個』が優先される国なんだなって思ってしまって、そこはちょっと羨ましい気もする(笑)
コミュニティとしてはダメだけど、個が優先されるべきという考え方が素地なのは羨ましい。
でも、ジーザスが突然ああなったのは、何か別のいい仕事が急に入ったから・・なんだろうなとは思っています(笑)
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※以下、ネタバレありのあらすじ及び感想です。
シーズン9第9話。
ゲイブリエルの檻の鍵の掛け忘れで外に出ることができたニーガンは、アレクサンドリアを脱出しようと試みるが、ジュディスに見つかる。
一方、ユージーンを捜索に行った一行は群れの襲撃によりジーザスを失うが、ゾンビの群れに交じっていた人間を一人捕らえる。ジーザスを埋葬するため一行は失意のなかヒルトップに戻ってくるが、入れ違いにジーザスたちを探しに行った新人のルークとイーニッドのボーイフレンドが、あるコミュニティの罠にハマる・・。
今回、ジーザスの死という重い代償にゾンビに紛れて行動するコミュニティの一人の少女を捕まえたメンバーですが、その少女に『壁なんか意味がない!』と、今まで苦労して作り上げ守り続けてきた壁と、壁の中で暮らすということを、たった一言で全否定されたエピソードだったわけですが、よくよく考えてみると確かに一理ある。
サバイバル能力の弱い人にとっては庇護されて快適に暮らせる壁の中だけど、結局はそれも戦闘能力が高い人あって成立していると言わざるを得ない。
適材適所とはいえ何にも向かない人も中にはいると思うし、実際戦闘能力が強い人から死んでる。
今回捕らえたのが娘で、ルークたちが罠にかかったリーダーが多分母親だと思うんだけど、母親の教育のたまもので口が堅いのと、子どもだからうまく説明できないだけで、あの少女の母親は、ゾンビとの共生を目指してるって言いたかったんじゃないかと思うんです。
敵とみなすんじゃなくて、ゾンビと人類お互いの利益で動く的な。
「善人かどうか見極めている」って言うのは子どもに言い聞かせる口実だと思う。
ジーザスいい人だもん。
人間同士の争いずっとやってたから目から鱗だったけど、そろそろ出てきてもいい考えですよね。ゾンビから自分たちを隔離するんじゃなくて共生するっていう考え方。
遠足に出たまま家に帰らない人が続出する中、まさか、ニーガンが家に戻るというきちんとした遠足に出かけるとは思ってなかった。
ニーガン、当たり前だけど最初は楽しそうでしたよね(笑)
そうだよねー、何年ぶりの外だったんだろう・・。
聖域に戻り、元の部下がゾンビになっているのを発見して最初は殺せず放置して、会議室に座り家具を並べ、あそこに留まるのかと思いきや、まさかのアレクサンドリアへの帰還。
檻に入るのがわかっていて、戻る・・なんでだろうって考えました。
わたしだったら、たとえ外で死んだとしても戻らないなって思った。
人の生への執着心って人それぞれだと思うけど、聖域も失い仲間も失い、檻の中で不自由な生活を強いられるのがわかっていながら、それでもニーガンがアレクサンドリアに戻って生きたい理由を知りたいです。
あの長い檻生活で得た何かがあそこにあるか、あの檻で朽ち果てるのが、自分のしてきたことへの償いだと思ったのか・・。
ニーガンとジュディスはいいコンビだし、2人で新しいコミュニティを作るっていうのも観たい気持ちになってきた。
そして、最後に割愛してもよかったんですけど、触れないわけにはいかないロジータ妊娠問題。まさか父親不明とかじゃないよね!?って一瞬思ったんですが、結局【コミュニティの子】として育てられるし、もうこの際誰の子でもいいか、という気になってました。父親争いが勃発したらそっちのほうがめんどくさいなーって(笑)
みんな普通に子ども生んでるけど、現代で子育てするより余計なしがらみ(お金とか、学歴とか、将来とか)がない分子どもに直に向き合える世界ではあると思うし、生まれてくる子どもは元の世界を知らないから、それなりに楽しみを見つけて生きて行けそうな気がするからアリなのかなぁと思ってきた。
二世がいっぱい増えれば、二世同士でまた子ども作って人類はしぶとく滅びないって感じにもなる。
今現在の目の前の最重要課題は、マスク集団のことですかね。
また、新しいメンバーに加えるというのも既視感ありすぎなんで、違う方向にいってほしいし、殺し合いだけはもう観たくないので避けていただける方向だと嬉しいです。
というわけで、それではまた。
第8話の感想はこちら。
【ウォーキング・デッド】過去記事(だいたい愚痴)はこちらから。
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