先日、下記イベントに行った際に購入した、女優・片桐はいりさんの著書。
『わたしのマトカ』と『グァテマラの弟』を読了したので感想です。
いつものような長い前置き【わたしとエッセイ】について語りつつ、本の感想を述べさせていただきたいと思います。
若いとき、狂ったようにエッセイを読んでいた時期がある。
正確に言えば、”狂ったように読んでいた本の中にエッセイがあった”というのが正しいのかもしれない。
その頃、わたしはひどい肌荒れをしていた。
年齢のせいもあったかもしれないが、あきらかなストレス過多だった。
今思えば、病気の予兆もあって病院にも駆け込んでいたが、医者はヤブだった。
この時抱えていた痛みの原因は何年もあとに判明することになる。
当時のことを振り返ってみると、家にPCは確かにあった。
インターネットも繋がっていた。
だけど、SNSも今ほど気軽じゃなかったし、24時間インターネットと繋がっている今のような状況じゃなかったように思う。
まだ、インターネットが生活に密着していなかっただけなのかもしれない。
お酒も飲めず、田舎で娯楽も少ないわたしのアミューズメント施設といえば、本屋とレンタルショップしかなかった。
我慢が限界に達すると、仕事帰りに本屋に駆け込みハードカバーも文庫も漫画も雑誌も、気になったもの、目についたものを手当たり次第購入して帰宅していた。
購入金額が数万円に及ぶこともあったけど全く気にしていなかったし、車通勤だったため大量の本を『持って帰る』ことにもハードルが低かった。
衝動買いでストレスを発散していたわけだが、わたしは買っただけで満足せず、部屋に引きこもり、片っ端から読んでいたのだ。
誰にも邪魔されない現実逃避の時間だった。
本が、大量のレンタルDVDになりかわっていたこともあったが、目的は本もDVDも同じである。
そういったわけで、誰のなんの作品を読んでいたのかは、うすらぼんやりとしている。
吉本ばなな、群ようこ、さくらももこ、室井滋・・のエッセイは確実に読んでいた気がする。
あ、余談ですが、この時流行りの自己啓発本も一通り読んでいたのですが、読み漁った結果、
・タイトルが目新しくなっているだけで言っている内容に大差はない。
・”これをやったから成功した”のではなく、”成功した人がこれをやっていた”だけで、凡人には参考にならないばかりか、本を買うことによって更なる成功に加担している。
と気づいたのでバカバカしくなり自己啓発本はそれ以来読むのをやめました。
もう一生分の自己啓発テクニックはこの時読み切った(笑)
話は戻って、完全に活字依存症に陥っていたわたし。
フィクションを読むのももちろん好きだったけど、エッセイにはエッセイにしかない魅力があった。
フィクションよりも書き手の人柄が透けて見えて、人柄が感じられるのがすごく好きだった。
書き手がどんな人か知るのが、すごく楽しかったのだ。
その時培われたエッセイ好きは人のブログを大量に読むようになった今でも続いていて、文章に書き手の人柄が見えないと飽きてしまって読む気をなくしてしまう。
ブログのアクセスを伸ばすには、シンプルでなるべく感情のこもらない情報サイトがいいとわかってはいるけれど、自分のブログをそういう風に変えることになんとなく踏み切れないのは、根っこの所のエッセイ好きが影響していると思っている。
というわけで、ここでやっと、久しぶりに読むことになったエッセイ。
『わたしのマトカ』、『グァテマラの弟』の話になる。
『わたしのマトカ』は、著者の片桐はいりさんが、映画『かもめ食堂』撮影の際、一か月程フィンランドのヘルシンキに滞在した時の滞在記だ。
フィンランドのことを中心に、食、人、観光スポット、そして映画の撮影秘話などが、色鮮やかに独特な筆致で描かれる。
『かもめ食堂』が好きな方は必読の一冊だと思う。
どんなシチュエーションで撮影されたか知ることは、映画に深みをもたらした。
今までに、映像作品ではたくさん観てきた片桐はいりさんだし、本を読む前に実際にご本人にもお会いしたが、不思議なもので文章に触れるとまた違った印象がプラスされる。
(マグロのように止まると死ぬ、好奇心旺盛で許容範囲の広い人)
と、実際ご本人を見て思った印象は本でもそのままだったが、想像以上のアクティブさだった。
わたし自身の幼少期、言葉を発するようになるやいなや、外に連れ歩くと好奇心を爆発させて、見るものすべてに興味を示し質問攻めを始めるので、恥ずかしいのとめんどくさいので母が連れ歩くのをためらったらしい。
記憶は全くないが、現状を考えると納得はできるし、事実だと思う。
なので、好奇心では、はいりさんに負けてはいないと思うが、わたしには彼女と比べて圧倒的に、体力と行動力、そして生命力がない。
はいりさんは、好奇心に加えてそれを満たすだけの全てを持ち併せている人だった。
わたしの尺度から言えば、撮影という仕事をこなしつつ本に書いてある全ての事柄を、1か月という短いスパンで行うのは不可能に思う。
休みの日は気を失っているようなわたしには考えられないことだ。
羨ましくてたまらないと思う反面、好奇心を自分で満たすことができないわたしのような人の代わりに、色々体験して本にまでしてくれる人がいるなんて、なんて素晴らしいのだろう! と思いながら読み進めた本だった。
はいりさんが好奇心を炸裂させて、フィンランドで食べたものや、行ったところを大切な思い出を交えて語ってくれたおかげで、わたしもフィンランドに行った気になったし、フィンランドの人たちの優しさに触れた気分になった。
『かもめ食堂』の景色とも相まって、わたしの中ではフィンランドは行ったことのある国のような感じだ。
そして、もう一冊の『グァテマラの弟』は、メキシコと南米大陸を細長く繋ぐ中米の国の一つ、スペイン語圏のグァテマラに、国際結婚して移住した実の弟を訪ねた際の滞在記だった。
ラテンの国、グァテマラのことだけではなく、弟、義理の妹家族のことはもちろん、はいりさんご自身の両親の事や幼少期の出来事も描かれていたので『わたしのマトカ』とはまた違った雰囲気だった。
北欧と中米の雰囲気の違いというのはもちろんあるが、より”人”のことが色濃く描かれていて、薄い文庫ながら、旅エッセイとは一言ではくくれない読み応えがあった。
人が透けて見える文章はやっぱり好きなのだ。
そして、本の中に居たのは、一家の責任感の強いお姉ちゃんだった。
『わたしのマトカ』でも優しさが溢れてはいたが、『グァテマラの弟』はそれに加えて情の厚さも感じた。
はいりさんが描く人々への愛情が感じられて、じんわり来たところも何か所かあったし、トークイベントの時に感じた(人が好きそう)が顕著に現れた内容だった。
わたしにとって、グァテマラの人々は、とても頼もしい気がした。
『わたしのマトカ』と『グァテマラの弟』それぞれにカラーが出ていて面白かったが、共通している部分もある。
それは、はいりさんの食に対する探究心だった。
世界一まずいとされる飴、北欧名物サルミアッキを体験したまではいいけど、その後、さらに色々なサルミアッキを試してみたのには脱帽だった。
わたしも食に保守的なほうではなく、とりあえず食べてみることには躊躇いを感じない方なので、一度は体験してみたいと思っているが、お金を出してまでまずいものを極めようとは思わない(笑)
それだけ食べるのが好きな人が描写する、食べ物たちの美味しそうなこと。
フィンランドは、ご飯がおいしくないと言われているけれど、あれもこれも食べたかった。
グァテマラでは、弟の妻が作る中米ご飯と、歯が痛くなりそうなデザートをお腹が切れるまで食べて、シエスタしたかった。
なんでも食べられる強靭な胃腸は、生命力に直結する。
そして、”たくさん食べたらそれなりに出す”というわけで、グァテマラでトイレを詰まらせた話には声を出して爆笑した(笑)
フィンランドもグァテマラも、日本とは文化も国民性も全く違うので、非常に興味深かった。
そして、どちらの国の人たちも、愛すべき存在だった。
だけど、人が多いところに住んで、わたし自身毎日ピリピリして生活していることが非常に空しくなり、どこかに逃げ出したくなったのは事実。
フィンランドのホワイトすぎる労働事情と、グァテマラのそもそも労働に重きを置いてなさは、羨ましいを通り越して泣きたい気持ちにすらなってしまった。
毎日無駄に頑張ってる気分になってしまうのは止められなかった。
そうはいっても、今後何か特別な人生の転機でもない限り、日本に骨をうずめることになると思うので、ここで頑張るしかない。
自分の性分もいきなり、ラテン系にはならないだろう。
せめてもっと肩の力を抜いて人生を楽しめたら素敵なので、これからはなるべくピリピリしないようにできるだけしたいと思う。
今も、人生の中では幸せで穏やかな生活だが、もっと、もっと、笑って暮らしたいと思った。
”泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生”の言葉を切実に思い出した読書タイムだった。
最後に『グァテマラの弟』は、解説が驚きのスペシャルゲストで、粋な演出でした。
というわけで、最後の1ページまで余すところなく、ちょっと肩の力を抜いて読める二冊のご紹介でした。
久々のエッセイでしたが、エッセイを読み漁っていた時を思い出してとても楽しかったです。
片桐はいりさん、素敵な旅の時間をありがとうございました。
次は、『もぎりよ今夜もありがとう』読みますね。
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