また、ミュージカル(映画)のお話。
先週公開されたなかではディズニー新作ミュージカル『ミラベルと魔法だらけの家』も真っ先に観たのですが、そちらはたくさん感想や考察を書いている人がいると思うので、迷った末に先にこちらの『ディア・エヴァン・ハンセン』について書くことにましした。
わたし『ラ・ラ・ランド』も『グレイテストショーマン』ももちろん観ました。
しかし、どちらもピンとこなかった。
二つとも「オープニングの曲がよかった」ぐらいの感想しかないです。
にもかかわらず『グレイテストショーマン』にいたっては遅刻してきた観客にヒュー・ジャックマンの板付き登場シーンを邪魔されたという苦い思い出。
ミュージカルにそこまでストーリー性は求めてないのですが、それでもちょっと響かない作品でした。
なので、制作陣がそれらの作品を手掛けているという点で一抹の不安はありましたが、劇場でエヴァン・ハンセンを演じたベン・プラットの歌声を予告映像で実際聴いて、そこだけは間違いがないという自信があったので観に行きました。
作品自体は、元々ブロード・ウェイで上映されていたミュージカルの映画化であり、ベン・プラット自身初演でエヴァン・ハンセンを演じているという安定感があったのはもちろんのこと、ベン・プラットはエヴァン・ハンセンのミュージカルを演じるために俳優になったんじゃないかというほどの当たり役だと思いました。
ストーリーは、社会生活や学校生生活に不安を抱えながら生活しているエヴァン・ハンセンが、”ただ同じ学校に通っていただけ”という同級生の自死という出来事の波にのまれて、溺れていってしまうという内容です。
現在28歳である彼が高校生役を演じているので無理があるかなと思いきやそんなことがないのは、作品の力によるものも大きいと思います。
最初に視認したときのベン・プラットは大学生役だったというのに。
でも、このライブでの彼を見ると、ベン・プラット自身がエヴァン・ハンセンに感情移入しているのもわかる気がしました。
ライブでは思っていたより陽キャな一面を見せていますが、すごく繊細な感じはする。
ミュージカルは音楽が命で、ベン・プラットは音楽に命を吹き込むことのできるシンガーです。歌の技術というのはある程度訓練で磨かれるものだと思うのですが、声はそうはいかないので、天からの得難いギフトを彼は持って生まれています。
音程を合わせられる人はたくさんいるけど、歌で感情を揺さぶることができる人っていうのは実際は少ないと個人的には思っていてその歌を劇場で体感できただけでも最高の映画体験でした。
劇中歌の『You Will Be Found』ももちろん盛り上がりソングで素晴らしいのですが、個人的には冒頭のこっち『Waving Through a Window』で心をもっていかれてからの映画への没入感が半端なかったです。
未見の方で楽曲を気に入ってくれた方は、ぜひ早めに劇場へ足を運んで頂くようにお願いします!
実際、ネトフリで観たライブも、タブレットから流した楽曲も劇場で聴いた彼の歌声とは別物です。
もっと澄んでいて透明感がありました。
正直「こんなに違う!?」と驚きました。
個人的には2021年に観た映画の中ではぶっちぎりで気に入った作品ではありますが、日本では高校生の自死という重いテーマのミュージカルは受けないと思いますし『王様のブランチ』でLiLicoさんが涙ながらに映画のよさや学生に観てほしいと訴えており、非常にその気持ちはわかるのですが、わたしが観に行ったときの観客は圧倒的に一人の大人が多く、そこまで人は入っていませんでしたので今週末には一日の上映回数はがくっと減らされると思います。
また、わたしはLiLicoさんとは違って、こちらの作品はむしろ積極的に大人に観てほしいと思いました。去年からのコロナ禍でいろいろ思うところがあった人も多いと思いますし、思春期のお子さんがいる方も響くと思います。
エイミー・アダムスとジュリアン・ムーアの母たちの演技にも注目です。
特にエイミー・アダムスの入り込んだ演技はかなり見ごたえがあります。
むしろ、エヴァン・ハンセンがここまでになってしまったのは、エイミー・アダムスのせいとすら思いました。
彼女も大好きな女優さんですが、本当に天才女優だと思う。
わたしは上映中中盤でちょっと感情がぐちゃぐちゃになり、マスクをしているせいもあってうまく呼吸ができずに過呼吸になりそうになりました。
劇場公開作品は一期一会で見逃すと一生劇場では観られない可能性が高いものですし、特にミュージカル作品はテレビと劇場では全く別物になるかと思います。
宣伝は『優しさが引き起こす感動』みたいな謳い文句で広報してますが、もっと人間味のあるヒューマン系の物語で『優しさが引き起こす感動』は感じなかったです。
胸が締め付けられる系のもっと人間のエゴみたいなものが描かれている作品だと思いました。
観ていて楽しい作品・・・とは言えないですが、劇場で観る価値のある映画です。
というわけで、映画のネタバレなし宣伝はここまでです。
ここからは自分の個人的バックグラウンドも交えた映画のネタバレ感想です。
思いがこもりすぎて、感想というかエッセイスタイルになってしまいました。
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わたしは、昨年コロナ鬱のようなメンタルになった。
病気で手術をしてから謎の体調不良に悩まされていた。
ドクターショッピングをしながら行き着いた先は心療内科だった。
そこで処方された薬を飲んでいて、数年かけてやっと体調やメンタルが安定していた矢先だった。
メンタルがガタ落ちした結果、わたしを一番苦しめたのは希死念慮だった。
もともと自分の生に対して猜疑心があるタイプではあったが、芸能人の自死がその気持ちに拍車をかけてしまった。
誤解を招く言い方だと思うが、けっして彼らを責めているわけではない。
わたしは通常の精神状態ではなかった。
一言でいうとうらやましくなってしまったのだ。
世の中の面倒ごと全てを自分と切り離せたことが。
彼らは面倒ごとと自分を切り離せるという欲望が、すべての日常生活における幸せに勝ってしまう時が来てしまったのだ。
死神の誘惑は強烈すぎるということを学んだ一年だった。
死神の誘惑は強烈すぎる。欲望に抗うのは辛い。
当事者の周りの人たちは自分を責めていると思うが、周りの人たちがどんなに頑張ってもダメなときはダメなのだ。
魔が差す、という言葉はまさにこういう時に使う。
そして、わたしのところに来ていた死神の影も時間とともに薄くなり日常もやっと落ち着きを取り戻してきた今年の夏、母が急逝した。
母は倒れるその日の夕方まで知人の家に遊びに行ったりして普通に過ごし、夕飯の準備中に倒れた。
数時間後に帰宅した父に発見された。
苦しんで吐き散らかしたまま意識を失い、そのまま1週間近く目覚めることなく心臓が止まった。
最後に母が作ろうとしていたのは、冷凍の春巻きだった。
そのほかにコンビニで購入した豚しゃぶの冷やし麺を食べるつもりだったようだった。
その冷やし麺はわたしが翌日に食べた。
もしかしたら消費期限が切れていたかもしれないがお腹は壊さなかった。
死は強烈でもあり、あっけなくもある。
リアルな死は映画みたいにはいかない。
実際はその裏にその人の歩んだ生活が潜んでいた。
そういった事情から、今のわたしにとって【死にたい気持ち】と【身内に死なれた気持ち】さらに【メンタルを病んでいる人の気持ち】がダイレクトに刺さる状態での鑑賞だったため、かなりきつい映画鑑賞となってしまった。
ベン・プラットの歌がなければ観られる作品ではなかったと思う。
エヴァンが、コナーの家族に本当のことを言えなかったのは本人が言う通り『理想の家族』が手の届く場所にあったから、というのも大きいと思う。
しかし【コナーの親友】という嘘をついてしまった・・・というのも映画を観たら違う気がした。
最初の段階は、コナーの遺族に本当のことを言えなかったというのが正しい。
言おうとしたのにエイミー・アダムス演じる母の救いを求める目で言うのが無理になったのだと思う。
わたしもあの目で見られたら無理だ。
そして、エヴァンが自死をしようとして失敗していたという罪悪感を抱えていたというのがかなりの重要ポイントだと思う。
彼は「あわよくば死ねるかもしれない」という思いで木から落ちた。
積極的に死ぬ気はなかったかもしれないけど、事故という体で死ねたら自死よりは残された人が傷つかないと思う気持ちはよくわかる。
下は土だし木から落ちたぐらいで人は死なないのはわかっているが「運良く死ねたら」っていうところだったと思う。
まさかこんなことで死ぬと思わないようなところで死んでいたほうが自死だとばれない。
一度でも死にたいと思ったことのある人は偶然の死に思いを馳せる。
それも無理だと思ったら事故死を偽装するという発想になると思う。
だけどエヴァンは現実には、とっさに身をかばってしまい腕の骨折にとどまった。
おそらくそんな自分に絶望した。
死にたいと思っているのはずなのに結局生きることを選んでしまった。
彼の嘘はそこから始まってしまっていた、とわたしは思う。
実際「ただの怪我」ということは誰も疑わなかったし、そのほうが都合がよかった。
誰もエヴァンがそんなことを思っているとは夢にも思わない。
エヴァンが顔だけは知っていた好きな人の兄であったコナーは、そんな意気地のない(と思っていたとわたしは思う)自分を軽々と超えてしまっていた。
そうして自死遺族を実際目の前にしたエヴァンに、彼らを傷つけたくないという思いが芽生えてしまったし、自分のそういう気持ちも悟られたくなかった。
嘘に嘘を重ねはじめてしまった瞬間。
その後、メールを偽装したり追悼イベントに駆り出されたり精神的な問題や悩みを抱えている人の活動につき合わされるようになってしまったことでさらに嘘を重ねるはめになってしまった。
わたしが洋画や海外ドラマを観ていつも思うことに【なぜ、ほんとうのことを言ってしまうのか】というのがある。
正直なことに美徳を見いだしすぎている、と。
一度ついた嘘はつきとおせばいいと思う。
さらに言えば人のためについた嘘は墓場まで持っていったほうがいい。
ほんとうのことが人を幸せにするとは限らない。
コナーの家族はエヴァンの書いた手紙を公開されてしまったことで非難を浴びて、エヴァンが罪の意識にかられてほんとうのことを言ってしまう流れになってしまったが、あの場合ほんとうのことを言わないほうがコナーの家族にとってもよかったのだ。
一生続く関係なわけでも、一生続く非難なわけでもない。
自分で死を選ぶか、そうじゃないかに関わらず遺族は故人を美化し、故人の思いを勝手に推測する。
コナーが家族のことを全く愛していなかったかもしれないけど、遺族はそうはいかない。
彼の死が自分の罪だと思いたくないし、自分たちは愛されていたと思わないと生きていけないからだ。
わたし自身、もう居ない母の気持ちを勝手に美化させた思いを告げられることにうんざりしていた。
母はそんな人じゃないと思っていたが、わたしより多くの身内の死を体験している年上の人にとってはそれは死を乗り越える処世術だったのだ。
わたしは死んでもわたしを大変な目に遭わせる母に怒っていた。
しかし、怒りを告げる相手はもう居ない。
遺された瞬間から、その人が居ない生が遺されたものには始まる。
時間は止まらない。
一刻でも早くそこから逃れないと壊れてしまう。
死に囚われているだけでは生活は成り立たない。
エヴァンだけのせいではなく、エヴァンを追いつめて本当のことを言わせなかったコナー遺族の罪もあったと思う。
コナーの死に家族の責任はないと思ったほうが幸せだったのに、結果的にはエヴァンが全ての責任を被ったことでその幻想も壊れてしまった。
わたしはエヴァンがついた嘘は『思いやり』というのともちょっと違う気がした。
それぞれのエゴだった。
そもそも嘘自体もエゴの産物だと思う。
何かの利益目的に嘘をつく。
コナーの死もエヴァンの嘘も全部エゴだ。
だけど、エゴが悪いわけじゃない。
優しくしたいというエゴも、誰かを助けたいというエゴもこの世にはたくさん存在する。
そうして世の中は回っている。
最後、エンドロールでしつこく何度も支援窓口を案内しているのはすごく心に刺さったし、アメリカ羨ましいなとシンプルに思った。
メンタルに問題を抱えている人で回りにそれを悟られないようにしている人は多い。
ちなみにわたしは会社では心療内科に通っていることは隠しているし、基本的にはメンタルの強い人だと思われていると思う。
人は他人を自分の思いたいようにしか思わないのが現実だったりするし、言われてもどうしていいかわからないのがリアルだ。
わたしも会社の人に自分のことなんて話したくない。
学生にとっての学校が会社だとすると、本当の自分でいない方が楽な場所っていうのは存在する。
趣味の話ですらしない。
だけど、周りの人じゃなくて、みずしらずの人に自分をさらけ出せることはよくある。
家族の繋がりを重視されるのが日本文化であるうえ、カウンセリング文化も浸透していない。
そういった意味でもやっぱりネット社会の意義は大きい。
負の側面も多いが、確実にいい面もある。
インターネットは諸刃の剣だ。
映画でも最終的にはネットの繋がりで小さな救いを得て終わる。
誰かの誰かを助けたいというエゴにすがるのも、自分を助けてほしいと利己主義になるのでもいい。
この作品は、わたしにとっては宣伝のようなほっこりした作品ではなかったけれど、一生のうちで最も心に残った作品のうちの一つになることは間違いなさそうだ。
忙しい合間を縫ってもう一度作品を観てみたら、また違う思いが溢れそうな気がする。
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